※NPO「昭和の記憶」【聴き書きデータベースより、
エピソードをご紹介します!
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末っ子の遍歴中澤 好孝さん
山梨県甲府市
大正12年(1923年) 生まれ


少年時代からの「遊び人」。高校はタバコを吸って放校。戦中はシンガポールの軍港に駆り出されそこで終戦に。1年間の捕虜生活を経て帰国、結婚するが「遊び人」の習性は直らなかった。「中澤休(やすむ)」という名前を改名、「中澤好孝」となって60余年。仕事も遊びも思い切りよく、と朗らかに振り返る。
聴き手:中澤 誠(長男)、中澤行雄(孫)
聴き取り日:平成17年1月30日
■タバコを吸って高校を退学に
生まれも育ちも山梨県の甲府市。5人兄弟の末っ子として可愛がられた。高校退学になるまで「悪さも遊びも思い切り好き勝手していた」。
好孝 わしは男3人、女2人の5人兄弟の末っ子だった。末子だったから、非常に可愛がられたよ。親父は学校の先生をしていてね、その教え子の人達には、いろいろと世話になったな。
── 子供時代はどんな遊びをしてたの?
好孝 ガキ大将でね、みんなでもって、でっかい木の上に秘密基地みたいなのを作ってたね。悪玉だったから、悪いこともいろいろしたね。おじいさんの大切にしていた本や、喪服を売り飛ばしてお小遣いにしちゃったこともあったな。
── その本や、喪服はどうなったの? それっきり?
好孝 いや、おじいさんが気づいてね。わしの売った2倍くらいの額で買い戻してた。今考えると、本当に悪いことをした。
── 学校の思い出ってあるかな?
好孝 東京の学校に行っていたことがあった。三田工業専門学校。でも退学になってね。
── 何をして?
好孝 仲間とタバコを吸っているところを警察に見つかってね。「おい、君達、ちょっとこっちに来なさい。医療切符を見せてくれるか?」と言われて。
── 医療切符っていうのは?
好孝 歳の証明書のことだ。あの頃はみんな持ってたんだ。当然みんな未成年者だったから、5、6人つかまって警察署に連れて行かれてね。所長の訓示を聞かされて帰されただ。
── でも、それだけで退学になったの?
好孝 まぁ色々なことがあったからなあ(笑)。それも含めてってことだな。
■シンガポールで1年間捕虜生活
戦争が始まると南方に召集され、シンガポールのセネカ軍港で終戦を迎える。戦後は捕虜となり、滑走路作りを手伝わされた。仕事中は足を蹴られたり棒で殴られたり散々な目にあったという。
── 兵隊として、戦地へ行ってたんだよね。
好孝 横須賀海兵隊として、シンガポールへ行っただ。シンガポールのセネカ軍港。あれはイギリス軍の5万トンの船があったところだ。102航空機基地に行くとしか聞かされてなくて、着いてみたら、シンガポールのセネカ軍港だった。その頃は、そういった基地は全て、暗号で呼ばれてたんだな。戦争中はずっとそこにいて、そこで終戦を迎えた。終戦後は今まで捕虜にしていたやつらと立場が逆転してね、1年間くらいセネカ軍港の滑走路作りをさせられてた。仕事中は、足を蹴られたり、棒でぶん殴られたりした。元捕虜と現捕虜。立場が逆転したんで、そりゃあ働かされた。
── 日本に帰ってきてからは、何をしてたの?
好孝 戦争から帰って、1年くらいぶらぶらしてた。南方ボケしてしまったんだな。向こうは四季がないからね。なんかこう、一年中夏休みみたいな感覚で、その感覚をひきずったまま日本に帰ってきたから、仕事をしてもなんとなく集中できないっちゅうか、手に付かなくてね。日本のリズムに慣れるのに1年ばかしかかったちゅうわけだ。色々な会社に勤めたね。缶工場、ペン工場、自動車の山梨モーター株式会社にもつとめた。山梨モーターは結構良かったんじゃけど、社長の息子が車売ったお金を使い込んじゃってな。社長も自分の息子がしたことだから、警察に言うわけにもいかなくて、なんかごたごたしとったら、重役達が皆、身を引いちゃってね。それで会社は立ち行かなくなった。
── それからはどうしたの?
好孝 その後、おやじ(敬造)の紹介で、市役所に勤めるようなって。運転関係の仕事だったから、事務系統とは違って割と単純な仕事だったから、やりやすかった。市長さんとか、県長さんとか、役所のお偉いさんをいろんなところに連れてく仕事。人と知り合う機会は多くて、顔は広かったね。皆に「アイアン」と呼ばれて。
── アイアン? どういう意味?
好孝 兄貴ってことだ。姉さんなら「ネーヤン」。兄貴だったら「ニーヤン、アニヤン、アイアン」だ。役所では、31年の間に6とか7とか課を回ったね。土木行ったり、建築行ったり、色々なところに行ったよ。また、昔はただ飲みがあってね。結構楽しかったな。
── ただ飲み?
好孝 ま、接待のことだな。でかい業者はお役所の仕事を引き受けることができると、仕事が完了した後、必ずお役所の職員を接待してくれただ。業者にすれば、でかいお役所の案件を引き受けられて、結構な儲けになるわけだから、そのお返しってわけだな。小料理屋とか、割烹料理屋とか、普段なかなか行かれんような、高級なところに連れて行ってくれた。とにかくお金があるっちゃけん。
── 今では考えられないけど、昔はそうだったんだろうね。
好孝 そう、今そんなことやってたら、首になる。
── 仕事の中で印象に残っている出来事はある?
好孝 うーん、そうだな。ある時同僚に「用事ができたけん、人の送り迎えを変わりにやってくれ」ってお願いされたことがあった。「わかった」って言って、代わりに人を迎えに行ったんだけんど、どうもその車のブレーキを同僚がいじっとったみたいで、それを教えてくれとらんかったけん、いつもどおりの感覚でブレーキを踏んだら、急ブレーキがかかってな。乗せていた人が胸を打ってしまった。ありゃ肝を冷やした。それ以外にも、車を運転してたから、事故は結構あったよ。ただ、車で人を轢いたり、傷つけたりっていうことはまったくなかったけんどね。そのおかげで、退職する時、市長から表彰状をもらったよ。
── 転勤に抵抗はなかった?
■家族には迷惑をかけた
好孝 みどり町に「曙」というダンスホールがあって、そこで知り合ったんだ。
── ダンスホールで出会っただなんて、なんかロマンチックだね。どこに惹かれたのかな?
好孝 そんなことはまぁ……。話をしただから、話があったのかな。出会ってから3年くらい付き合って、ちょうど市役所に勤めだす頃だったかな、兄貴達に「ちゃんとした仕事にも就くだから、そろそろ身を固めろ」って。そういう勧めもあって、結婚した。この辺には、昔、グランドキャバレーというところがあって、結婚してからも週に1、2回はそこに行ってた。ムーランというとこもあったな。悪い友達と一緒に遊びまわって、酒飲んでわーわー騒いでた。家族には迷惑かけたかもしれんが、若い頃は本当によく遊んだよ。
名は体をあらわす。「休」──この名前は今の大変な時代にそぐわないと思った。そうして、名前を変えることにした。
好孝 わしは一度、名前を変えてるんだよ。8月3日に生まれて、その頃ちょうど夏休みだったから「休」と書いて、「やすむ」という名前をつけられた。「きゅうちゃん」って呼ばれてたな。軍隊から帰ってきてから、この社会状況で、「やすむ」っていうのはうまくねぇ。こんな名前じゃだめだって。そんで、名前を変えることにした。名前を変える時、口頭審問があって「なんであんた名前を変えるんだ」と。「働き者なのに(笑)、『きゅう』とか、『やすむ』とかって言われて、どうもしっくりこない。だから変える」と答えた。名前はおじいさんが本やなんやいろいろと調べてくれて、「好孝」か「好彦」のどっちかにしろってことになったんで、自分で「好孝」のほうを選んだ。こっちの名前の響きのほうが良かったからね。
■次世代へのメッセージ
── 次世代の若者に向けて、何かメッセージをもらえるかな。
好孝 私は道楽したからねぇ。ま、仕事は一所懸命して、だけど抜くところでは気を抜きなさいってところかな。ストレス解消は絶対に必要だからね。私ももう歳だけんど、今でもカラオケ行ったり、スナック行ったりしてるよ。若い頃はしっかりいろんな経験をするために遊びもしっかりすることだね。何事も勉強になるからね。
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中澤さんのワイルドな生き方が伝わってくる記録!
聴き手がお子さん、お孫さんなのも素敵ですね。
タバコをくわえたお写真が、またいいですねぇ。。
瀧澤尚子