2009年03月31日
レストヴィラ溝の口での聴き書きイベント撮影
昨日は、TBSの取材を兼ね、レストヴィラ溝の口
行ってきました!

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ありがたいことに、
3名のご入居者の方にお話を
きかせていただくことができました!

今回は、昭和の暮らしぶりを描いたポストカード
使って、皆さんの子どものころの思い出を中心に
お話を伺いました。

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君子さん(一番右)は、
小さい頃はよくけん玉をして遊んだといいます。

兄弟や近所の子供たちのお守りのときにも
けん玉をしてあげると
とても喜ばれ、勉強もよくしてくれた
とのこと。

今でもお部屋にあるとのことで、
イベントの終了後、遊びにいかせていただきました♪

そうしたら君子さん、
「もしもしカメよ〜」
と、見事なけん玉を披露してくださったのでした!

当日の模様は、TBS(BS−i)の「女子才彩」
という番組で、4月下旬〜5月上旬に
放映される予定です。

ぜひご期待ください!

瀧澤尚子






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2009年03月30日
日本ホスピタリティ推進協会 事例発表
28日、日本ホスピタリティ推進協会で
事例発表をしてまいりました!

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<当日のレジュメ内容>
1.自己紹介
2.NPO「昭和の記憶」活動紹介
3.おもてなし事例――聴き書きの現場から
●訪問時は…
なるべく楽にして、くつろぐ!
●出されたお菓子やお茶は…
全部食べ、おかわりする!
●別れ際は…
「また来ます」と、潔く去る!
●お礼は…
高級で豪華なものは、お返ししない!
4.参加者の声

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(左)協会ご担当の長塚さんと。 (右)同行してくれたインターンのみんなと。

当日は、TBSの取材も入り、
今回の模様も、番組内で紹介される予定です!

お世話になった皆さま、ありがとうございました!

瀧澤尚子
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2009年03月28日
ホスピタリティ・デー
今日は、NPO日本ホスピタリティ推進協会さまから
お声がけいただき、
ホスピタリティ・デーにて、事例発表をしてきます!

↓NPO日本ホスピタリティ推進協会
http://www.hospitality-jhma.org/

発表は全部で3団体。
富士ゼロックスさん、ヤヨイ食品さんに続き
NPO「昭和の記憶」も登場します!

では、行ってきます!!

瀧澤尚子
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石川テルさんの聴き取りの記録
※NPO「昭和の記憶」【聴き書きデータベースより、
エピソードをご紹介します!

**

石川テルさん(90歳)
東京都世田谷区 大正4年(1915年)生まれ
聴き手:副枝志保子(子)
聴き取り日:平成17年4月28日

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■あきらめた教師への道
石川 宇都宮市内の戸祭というところで生れたの。家が貧しくてね、子沢山だったから、私が4歳くらいの時、母の実家の旅館屋に預けられたのね。おばあさんと叔母さん、母のお姉さんね、それに養子の叔父さん、みんな良い人たちだったわね。
体は弱かったんだけど、めはしがきく、というのかよく動いたので可愛がられたわ。
今思うとよく働いたわ。
朝は5時に起きて、お客さんのお茶を用意して、階段を上ったり降りたり、髪を結って、急いで朝ご飯を食べて。そうこうしている間に、お客さんのお膳を片付けて、かばんを肩にかけながら走って学校へ。途中の土手で宿題をするの、先生が通りすがりに「何してる!」って。「宿題です!」って返すの。それでも級長していたのよ。

土手で思い出したんだけれど、二三夫兄が妹をおぶって友だちと川原で遊んでいたの。そのうち、その妹を下ろして、自分は友だちと夢中になって遊び出しちゃったのね。妹はハイハイして動き出し、ころころと川に落ちちゃったのよ。
私は、吃驚して、急いで川に入って、ひっぱって土手に押し上げたんだけど、それより上にあげられない。困って兄を呼んだんだけれど、夢中で聞こえない。ちょうどその時、旅館に泊まっていた軍人さんが通りかかって、助け上げてくれたの。
さあ、それからが大変。兄は、母親にさおでたたかれ、私は、全身ぐっしょり。そんなことがあったわねー。

小学校4年生のとき、叔父さんが、雛人形と雪洞を買ってくれたの。嬉しくてね。
雛人形といっても、女の人1人で「竹小町」って書いてあったの。「雪洞や 雛を飾りて 桃の花」「雪洞や、昔を偲ぶ 竹小町」だったかな、二つ作ってお客さんに見せたら、ずいぶん誉められたわね。

── 子どもの頃、将来、何になりたいと思った?

石川 学校の先生になりたくて、高等科に行くつもりでいたら、旅館に泊っていたお客さんが、「女学校へ行けば、2年早く先生になれるから女学校に行ったほうがいい」と言ってくれたの。でも、勉強なんかろくろくしていないじゃない。だから、あきらめ半分で試験を受けに行ったんだけど、結果はなんと合格。
びっくりしたわね。

今でも憶えている試験問題があるの。「栃木県で一番大きな川の名は?」という問題だったんだけど、私は「田川」って書いたの。旅館の横を流れていた、その川しか知らなかったのよ。

── それから、女学校生活が始ったのね。

石川 旅館の仕事を手伝いながら、女学校に通っていたの。女学校では、「葉桜の君」って言われてね、最初は嬉しくてね、桜がついているし素敵だな、と思ったら、何のことはない、歯が少し出ていたから。桜は、花が咲いてから葉が出てくるでしょ。でも、葉桜は、葉が先に出てから花が咲くのね。
歯(葉)が鼻(花)より先に、ということ。そんなでもないのにね。

他には、みんなの前で落語を披露したりしたのが楽しかったわね。
そうこうしているうちに、叔母さんが死んじゃったの。もう悲しかったわ。
おばあさんと叔父さんだけでは、旅館をやっていくには大変、ということになって、しばらくして、叔父さんが再婚したの。
でも、このお嫁さんが、子ども嫌いで、私の居場所がなくなって。仕方なく、女学校も中退。で、世話する人があって、奉公に行ったの。

── 先生の夢、やぶれたり、だわね。

石川 そうね、学校は行きたかったけれど、一人立ちもしなければならず、感傷にひたっていられなかったわね。
その奉公先で、小さな子に「テル、テル」と呼ばれ、腹が立って「あんたに呼び捨てにされるすじあいじゃない」って、ひっぱたいて飛び出しちゃったの。

東京に行きたくてもお金もないし、仕方なく旅館している叔父さんのところに帰ったの。そして、叔父さんの知り合いが、南千住にあった紡績工場を紹介してくれて、そこで働き始めたの。

■悲しみを乗り越えて……

石川 どのくらいいたかしら……。ある日、兄が来て、「姉が危篤だ」って呼びに来たので、2人で宇都宮に帰ったのね。
姉はやせ細って、私の手をとって、「おテル、おテル、行かないで」って。とってもひもじい思いをしていたのね。
私は、いそいでお米を買って、ご飯を炊いて食べさせて、ひどいとこに寝ていたから、貯金を下して蒲団を買って、そこに寝かせてね。
この姉は、小さい頃、はしかの高熱で、知恵遅れになってしまったの。小学校でね、この姉が授業中、「おテル、名前が書けない」って呼びに来るの、そうすると先生が、「行ってやれ」って。何回行ったことか。姉が、小学校を卒業した時は、ほっとしたわね。

私の母は、若くして死んでしまって、父が再婚したので、姉は、継母に世話されていたんだけれども、今で言う、児童虐待よね。充分に食べさせて貰えなかったの。
私も兄も知らなくてね。姉は、死の直前、私の手握りながら、継母にされた仕打ちを話し出してね。側で聞いていた叔父さんが、「お雪、もういいから、わかったから」って。堪らなくなったんでしょうね。
姉が亡くなり、後片付けもすんで、東京に戻り、今度は浅草で世帯を持っていた長兄の世話で、浅草の電気館で働き始めたの。
最初は切符もぎをやり、そのうち2階の案内係に。そこで、ある男性と知り合ったの。
その人は、私の仕事が終るのを外で待っていてくれてね、2人でおしゃべりしながら――何をしゃべったんでしょうね――清住町まで歩いて、私の下宿先の叔母さんの家まで送ってくれていたの。
そして、その人はそこから浦和まで帰るの。

ある日、その人の友人が来て、彼が病気だから見舞ってやってくれと云われ、初めて、その人の浦和の家に行ったの。立派なお家だったわね。私が帰るとき、その人が「電車賃だから」って、私の手にぎゅーとお金を握らせてくれたの。あの頃、私は貧乏だったから。
暫くして、友人が「亡くなった」という知らせを持ってきたの。彼、肺結核だったの。
私もずいぶん泣いたわね。隅田川のほとりで泣いたの。
手紙もたくさん貰ったんだけれど、泣きながら全部燃やしたの。

それから、長兄の友人から、電気館での私の働きぶりをみて、丸ビルに出店していた文房具屋さん「文祥堂」で働かないか、と言われて、文祥堂に移ったの。

── お父さん と知り合ったのは?

石川 さっき言った、肺結核で亡くなった人の友だちだったの。

── 結婚した頃、この辺はどうだったの。

石川 田舎だったわねー。家もまばらにしかなくて、畑ばかりで、ほんとに田舎だったわよ。
結婚した時、野田の叔母さんも同居していたのね。その人は、池田公爵家の奥女中をしていたから、何でもできるでしょ。きちんとしたきびしい人だったわね。
私にお琴を教えてくれたんだけれど、音痴でしょ、ひくことは出来るんだけれど、自分で調律ができないのね。
とうとう叔母さん、さじ投げたの、「あんたはだめね」って。


▲大宮公園にて。結婚当時


■そして、開戦

── やがて戦争が始まったんでしょ。戦争中は?

石川 そう、大変な時代だったわね。
東京は、爆撃が激しくなるからと、荷物を宇都宮に疎開させたの、次兄のところにね。
やがて、その宇都宮も危ないっていうんで、家の荷物と兄のところの荷物を、さらに田舎に疎開させようと玄関に積んでおいた、その晩に空襲にあって焼けてしまったのよ。
でも、荷物に保険がかけてあったので、助かったわ。あの時の保険料、現金はほんとうに助かったわ。
家の玄関の床の下に、防空壕を掘って、荷物をいれたり、あんまり大きくなかったのでね。
私たちは、家の前の関根さんの庭に作った防空壕や、お隣の林さんの所の防空壕にはいったんだけど、お父さんは、絶対に入らなかったの。
飛んでいるアメリカの飛行機を窓から見て、
「きれいだなー、敵ながらアッパレだなー」って。私は、はらはらしたわよ。
また、町会で消化訓練のバケツリレーとか、竹やり訓練があったんだけれど、お父さんは、絶対に参加しないのよ。
一世帯に一人は出なければならないので、仕方なく私が出るでしょ。
毎回だから、ご近所さんは「うちはかかあ天下」と思っていたらしいの。でも、とんでもない! 訓練のあと少しおしゃべりして家に帰るでしょ、すると、「すぐに帰ってこない、人にこどもを預けて」って怒るの。
さらに、紙に「おさなごを われに預けて 遊びほけたる 妻憎きかな」なんて書いて置いてあるじゃない、しゃくにさわったわね。
遊んでいたわけではないのに。

── よく、憶えているわねー。

石川 だって、腹がたって、くやしくて憶えているわよ。「妻憎きかな」ですもの。

── お父さんは、兵隊にならなかったのね。

石川 赤紙ではなく、青紙が来たの。青紙は、教育召集といってね。
でも、途中で赤紙に変更になることがこの頃は多かったそうよ。昭和19年の2月だったと思うけど、徴兵検査を受けるため、一緒に、千葉県の習志野まで行ったんだから。結局不合格で返されたんだけれど、嬉しかったわね。
私が思わず嬉しそうにすると、お父さんが、「しっ、営門を出るまでは、静かに」って。徴兵検査が終わったのが、夜の9時過ぎ。雪は降ってくるし、最終電車が遅れて、豪徳寺まで帰れないだろうということで、浅草のおばさんのところへ行くことになったの。当時は郊外だからね。
それで、着いたのが真夜中。そこでやっと落ち着いたわね。

「お父さんが戦争に行ったらどうしよう。あの性格だから、絶対生きて帰ってこれないだろうな」などと考えていたから、「不合格」と聞いたときの喜びは、わかるでしょ? 合格した人は、家族の待合室にきて、私服を持って帰ってもらうの、でもね、喜んでいた人なんていなかったわね。皆、沈んでいたわ。足が悪い人まで、招集されていたのよ。不合格になったと思うけど。

不合格になると、大変なの、役所へいって、その旨の報告をし、徴兵検査の不合格の証明書を提出しなければならないのね。
お父さんは、再びお役所勤めでしょ。食料も乏しくなって、お弁当には苦労したわ。
配給だけでは、足りなくて、いつもひもじい思いをしていたような気がするわね。
あなた(聞き手)がお腹にいるときは、妊婦ということで配給物が優先されたことはあったけれど。

あなたが生れた時、お父さんは「女ですか」ってがっかりしたような言い方だったから、お産婆さんから怒られてね。
「上に3人も男の子がいて」って。
大きくなってからは、「女の子がいてよかった!」とよく言っていたけれどね。

ある日、あなたを負ぶって、子どもたちの手をひいて、警察に行ってね、
「発育盛りの子どもたちに、配給だけでは足りないから、お米を分けてくれ」って言ったのよ。
当時の警察には、闇取引の物が没収されてあったのよ。沢山はなかったような気がするけれど、分けてもらって帰ってきたの。
あなたは赤ん坊で、私の背中で、よく眠っていてくれて、ほんとに助かったわ。防空壕に入れても、寝ていてくれたものね。

── その時から、親孝行だったんだ! それで、玉音放送は聞いたの?

石川 どこで聞いたんだろう……? 自宅で聞いた、という記憶はないんだけれど……。
「戦争が終わった」「負けた」と聞いたけど、実感はなかったわね。
ただ、その夜から、電気の傘に黒い布をかけなくてよかったのがとても嬉しかったわね。
明るかったわねえ。戦争中なんか、ちょっと明るくしていると、町会の人が来て、「敵機にみつかるではないか」と怒鳴られたもの。
でもね、戦争が終ってからの方が、食糧難で大変だった。
お芋の買い出しによくいったわね。
農家へいくでしょ、先ず最初に「何をもってきたの?」って聞かれるの。そこで、着物だとか、帯だとか見せてから売ってくれるの。
もちろん、お芋の料金は現金で払うのよ。
私の着物も帯も、二つ折りにできる三味線も、ヴァイオリンもみーんな食べちゃったわ。

いつだったかしら、お父さんの役所が焼けたの。
確か、落雷だったと思うけど。大蔵省も焼けたんじゃなかったかしら。その時、業者からの火事見舞いなんでしょうね、果物の缶詰を貰ってきたの。
嬉しかったわ。子どもたちも大喜び、美味しかったわね。

戦争が終ったのが、昭和20年の8月15日でしょ。碩哉(子?)は、まだ疎開先にいて、いつ帰ってくるのかわからなかったの。
近所の人が様子を見に、疎開している新潟県の白根に行ったんだけど、その人いわく、みんなやせてがりがりだから、早く連れ戻した方がいいって言うものだから、新潟へ行ったの。

── 切符はすぐ買えたの。

石川 なかなか買えないのよ。
当時、父が鬼怒川の大きな旅館の帳付け番頭をしていて、その父が、知り合いのつてで買い、それを送ってくれたのね。
そして、疎開先へ行ったら、ほんと、骨と皮だけ。先生たちは、まるまるして、当時はそう思ってしまったのね、憎らしかったわよ。
碩哉に、「一緒に帰る?」と言ったら、「皆と居る」というので、あきらめて帰ろうとしたら、「やっぱり帰る」というので連れて帰ったわ。途中、宇都宮に寄った時、旅館の叔父さんが碩哉を見てびっくりして、「かわいそうだから、ここへ置いていけ、東京より食べ物はあるんだから」って。
でも、本人は帰ると言うので帰ってきたの。
お米を持たせてくれて、嬉しかったわね。頭にしらみはいるし、やせてしまって、ほんとにかわいそうだったわね。

── 「人骨」騒ぎがあったっていう話、聞かせて。

石川 そうね、そんなことあったわね。昭和22年か23年だったのかしら。
ここから、少し先の大きなお家に、お父さんとその息子と娘の3人が住んでいたのね。あまりご近所付き合いのないお家だったそうよ。
ある日、その家族が引っ越して行って、山下で鰻屋さんをしているという人が新しくやってきたの。

その鰻屋さんのおかみさんが、自宅に向って歩いていたら、自宅の門の前に、白絣を着た若い男の人が立っていて、すっと入って行ったのが見えた。「お客さんかな?」と思って自宅に着いてみても、そんな様子はない。
こんなことが1度や2度ではなかったから、さすがにおかしいなあと思ったの。

ある夜、おかみさんが寝ていると誰か起す人がいる。はっと目をあけると、その若い男の人がいるんですって。
おかみさんは気持が悪くて、前に住んでいた娘さんを問いただしたところ、「父親が放蕩息子を刀で切って殺し、遺体をそのおかみさんの寝ていた部屋の下に埋めた」と白状したんですって。

すぐに警察が来て掘り返したら、人骨が出てきたの。頭から肩へかけて傷があったという話だったけど。
結局、その父親は既に亡くなってしまったし、目撃した娘さんは精神がおかしくなった、という噂はあったけど真偽の程はどうでしょうね。
鰻屋さんは、その後引越してしまい、その後、4軒の建売になったものね。
この事件が新聞に載ったか記憶にないんだけれど。

今思っても、大変な時代をよくここまできたなと思う時があるわね。
今また、徴兵制やら戦争なんて言ったら、私は、反対のデモに先頭たってやるわ。

(我が家で、一番血の気の多い母でした。)

**

テルさん・副枝さんのおうちには
よく遊びに行かせてもらっていて、
いつも温かく迎えてくださいます。

おうちには、お孫さんやひ孫さんたちが
よく集まり、賑やかで温かいご家族の雰囲気
に、ついついうっとりとしてしまいます。

先日のパーティーも、本当に感動の一日でした。
http://home.memory-of-showa.jp/article/113470358.html

瀧澤尚子


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2009年03月27日
帯広市民大学講座
25日、帯広とかちプラザで、
帯広市民大学講座で講義をしてまいりました!

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北海道は、まだまだ雪景色でした。。


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「語り伝えを記録する〜人と地域の再生〜」
というテーマをいただき、
18時半〜講義スタート。

主に聴き書きの現場で聴かれたエピソード、
こんなことがあったという例を中心に
お話しさせていただきました。

<講義レジュメ>
1.自己紹介
2.NPO「昭和の記憶」活動紹介
3.聴き書きの現場から
@「聴き書き」の奥深さ
・それぞれの人生、価値観
・どこまでやってもゴールがない!?
A「高齢者」に接するということ
・一期一会
・人生の大先輩
4.若者が参加する理由


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前日に講義をされたにれの木・桂子さんとも
嬉しい再会!

貴重な機会を、ありがとうございました!!
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2009年03月25日
これから北海道へ!

今日は、帯広市民大学講座で講義をしてきます!

まだまだ気温が低い様子ですが、

防寒完備で、とかち帯広まで、行ってきます!!

瀧澤尚子
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加藤恭男さんの聴き取りの記録
※NPO「昭和の記憶」【聴き書きデータベース】
より、エピソードをご紹介します!

**

●全部はじめての経験

加藤恭男さん(かとう・やすお)

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昭和4年(1929年)名古屋生まれ。京都の大学を卒業後、神戸で就職。日本の雑貨をアメリカに輸入する商社マンとして、1953年に渡米。民間企業職員の渡米は、当時非常に稀なことだったという。1959年にあいこさんと結婚、70年までアメリカで過ごす。帰国後は同会社の日本支局の職員として東アジア・東南アジア諸国に活動の場を移す。その後はイタリアの婦人服輸入などに携わる。豊富な海外取引の経験を活かして、今も貿易に関する相談などを続けている。埼玉県川口市在住。

聴き取り:2003年2月1日
聴き手:新藤浩伸



珍しかった渡米

●大学卒業後、神戸で就職。

●パスポート取得のために東京の商社「三和貿易」に籍を移す。当時は東京でしかパスポートが取得できなかった。パスポートは皮製、手書きの部分もある非常に立派なもの。

●1953年12月、渡米。

●渡米直後、2〜3週間は当地に慣れるためマンハッタンにあるYMCAのホテルに住んでいた。そのあと、別のアパートへ。ピアノもあり高級なところだった。近くに住んでいたコロンビア大学の学生を家に呼び、遊びに来たことも。同年齢という事もあり、バーベキューに行ったり、楽しい時を過ごした。「とにかくあそこはね、ちょっと僕には高すぎたね。当時110ドル、会社が3分の1を負担してくれました。あまり治安の悪いところへ行っちゃ駄目だって。とにかく良くしてくれたよ。」

恭男さん:24歳で行きました。就職してから2年弱ですね。

あいこさん:若いでしょ。違う人みたいになっちゃった。(笑)

恭男さん:当時給料が1万円ぐらいだったんです。そのときに渡航費が片道43万いくら。


―今だったら、月給が20万として…片道800万!!始めてアメリカに行く事が決まったときは、どう思われました?

恭男さん:嬉しかったね!嬉しかった。こんなチャンス逃がしたら駄目だと思って。金銭的にも許可が下りなかったし、留学生もフルブライトだけ、あとは私費留学。それも普通では行けない時代だったからね。私は飛行機で行ったんだけども、当時はあまりに運賃が高くて、船で行った留学生が多かった。40日くらいかかった。貨物船で方々寄って来るでしょ。

―40日!ところで、当時のアメリカにいた日本人というのは…

恭男さん:エリートの人達だね。私のような、庶民でニューヨークに渡ったって人は、私はその当時一人も知らなかったです。日本人というと、三井・三菱・住友のような大きな総合商社の出張員。それでも、あれだけ大きな会社でも、2、3人しか来てなかったな。


左:渡米直前の恭男さん
中央:独身時代のアパートの前で
右:日本人留学生との交流



あいこさんとの結婚、アメリカでの生活

●仕入れでたびたび「日本に出張」していた恭男さんは、59年にあいこさんと結婚。
●当時渡米した男性は単身が多く、のちに奥さんたちを連れてくるようになった。当時そういった家族が言葉の壁に苦しむ中、あいこさんは英語が話せたのでそれほど苦労はなかったという。

―ご結婚をされたのはアメリカで?

恭男さん:いやいや。アメリカの三井銀行の支店長から、「君、なにじんと結婚するつもりだ?」って。(笑)そんなこと言われたってわかんないじゃない。そしたら「日本人と結婚したくないか?そしたら俺紹介してやるよ」と言うんですよ。そしてアメリカから帰ってきたとき紹介してくれたんです。

あいこさん:主人はアメリカから出張で毎年仕入れに帰ってきてたんです。そのとき初めて会って。向こうからの社員として。

恭男さん:これはその当時扱ってた商品です。

恭男さん:日本で結婚して。新婚旅行でそのまま向こうに仕事に帰りました(笑)。ハワイに2日ばかりいて。

あいこさん:そのとき私は口に入らないこんな大きなステーキ食べました。飛行機も初めてだし、とにかくエキサイトしてました。全部初めての経験。

恭男さん:で助かったのはね、この人英語が上手だったの。よく勉強してたから。

あいこさん:プラス貿易会社に勤めてたから、嬉しくて行ったってかんじ。

恭男さん:買い物から何から面倒見る必要がなかった。着いた翌日から車引いてスーパーに行ってました(笑)。

―あっという間になじんでしまったわけですね。



商社の仕事

●日本のおもちゃや陶磁器、服飾品といった商品を輸入、アメリカで販売する仕事に携わっていた。

―雑貨を日本から輸入してアメリカで売る、というお仕事は、どんな毎日だったんですか?

恭男さん:仕入れするにはお客さんの声が必要ですから、販売もしなきゃならない。だからセールスマンとよく旅しましたよ。ステーションワゴンに荷を積んで交代で運転して。一番楽しかったのは夜ですね。モーテルに泊まるんですけど、夜になるとモーテルのパブにみんな集まって、面白い話が始まるんです。

―どんな人が?

恭男さん:商売の人や、村や町の訪問者。知らない人がたくさんいるんです。だから、英語を話せるようになりましたよ。

―渡米当時は話せましたか?

恭男さん:勉強はしてましたし、英語を使った仕事をしてましたけども、やっぱり楽じゃなかったですよ。それまでは決まったバイヤーが来て話してましたけど、向こうはいろんな人と会いますでしょ。それに言葉が違うんですよ。南部に行ったとき、こりゃ英語かしら、と思ったよ。バージニア州から下はわかりにくかった。でもいい人が多かったね。

―たくさんの人と会って話されたんですね。

恭男さん:いっぺん行くといい勉強になるよ。言葉はうんとやっておくといいね。向こうに行くとブラッシュアップされます。

あいこさん:話して始めてわかる言葉もたくさん。prettygood とか gonna とかなるほどって思って。住んでると自然に口から出てくるようになる。

―そうやってアメリカじゅうまわられたんですね。

恭男さん:一件お客さんでね、エルビス・プレスリーの生家のまん前に店を持ってる人がいてね、。テネシーのナシュビル。行ってみたら、なんとなんとすごい、エルビスプレスリーのレコードがずらり。とにかく売り上げがすごかったですね。観光地だったみたいで。うちの会社もあそこはよく売りましたよ。

―お仕事は忙しかったですか?

恭男さん:忙しかったですよ!シーズンによって波がありました。一番忙しかったのは夏から秋ですよ。というのはね、クリスマスがとにかく一番消費が多いときですね。ヒットしたおもちゃなんていったら、もう間に合わないですよ。当時の日本は、おもちゃをアメリカに輸出していたんです。



仕事・家庭への向き合い方

あいこさん:1年経って仕事の成果があがると、年俸の交渉をするんです。お互い納得して決めて。逆に、能力のない人はすぐにくびになっちゃうんです。

恭男さん:まあ、自分で辞めてくよ。合わないっていってね。

―そういう転職が日常的なんですか?

恭男さん:でもいい人は辞めない。このパティなんて、28年いたんだよ。頭がいい人でさ。


あいこさん:みんな仕事終わったらすぐ家に帰っちゃうんですよ。6時には家にいましたね。子どもが生まれても、母親が手伝いに来れるような時代じゃないんですけど、もう6時にいたから、一緒に洗いものしたり、ミルクの煮沸や家のこともまめにやってくれて、助かりました。二人なのにやってこれたのは、向こうの会社が家に早く帰らせてくれたからですね。

―いくら仕事がたまっても残業はないんですか?

恭男さん:基本的に残業はありませんが、どうしても仕事が残っている時は、翌朝早出して片付けるというのが常識でした。もう6時に家を出ちゃう。

―6時!?

恭男さん:7時台から仕事してるからね。

あいこさん:でもディナータイムは家族と一緒。でもそれは習慣で考えかたが違うからよ。

恭男さん:女性は夜のほうが怖いでしょう?それに書類の作成なんていうと、彼女らの力が必要ですから。

あいこさん:みんな名前で呼び合って面白かったですよ。恭男だからヤスって呼ばれて、今でもそう(笑)。社長もボブだし。私も呼び捨て。社長の家に行ったらコートを脱がしてくれるし、ドリンクを出してくれるし。プライベートになれば、友達ですよね。社長も部長もない。

―会社にいるときはきっちりビジネスをやって。

恭男さん:そう。で、外へ出たら友達。

―仕事への向き合い方が違うのかなあ…。じゃあ、会社帰りに飲みに行くなんてのは?

恭男さん:帰りにちょろっと会社近くのパブでビールを一杯二杯飲んで帰るなんてことはあるよ、夏なんかは。でも遅くまで飲んで酔っ払って帰るなんてことはない。この人たちとよく昼飯食いに行ったよ。


あいこさん:女の人誘っても、日本の会社みたいにうるさくない。この写真だって、男の人が後ろにいたって平気で足組んで。みんな平気ね。


カルチャーショック

●車、町、店、あいこさんは当時の日本と比べて、その違いの大きさに驚いたという。「お若いからわからないでしょうけど、当時の日本の状況をわかってると、驚きが違うと思いますよ。だいいち車があるってのでカルチャーショックを受けましたもの。スーパーなんてのもないし。とにかく色彩がすごいきれいで。きれいなタオルがザーッと並んでて。車も行ったらあるし。家族で週末に大きな車で一杯買ってくるのを見てショックでしたね。日本ではかご下げて買いに行ってた、そういう時代でしたから。とにかくすごく広かった。」


色とりどりの風船

―アメリカの生活がやはり一番思い出深いんですね?

あいこさん:影響受けましたね。家族大事にするとか。

―それまでの子ども時代に、戦争を体験されたりしたときとはまるで変わってしまったわけですね。

あいこさん:やっぱり若いときの影響って大きくて、皆さんこの年になると和食とか召し上がられますけど、うち違うんですよ。

―そうなんですか。

あいこさん:今でもサンドイッチだとか、カナディアンベーコンがどうのとか、好きなんですよ。二人で、そんな高いとこ行けないけど、お昼にはサンドイッチを食べます。



スーツケースとパスポートが手放せない日々

●70年、帰国。アジアに仕事の場を移す。
●イングランド・アイルランドにも行ったという。

恭男さん:後に1970年に日本に帰ってきて、東京に事務所作ったんです。どんどんどんどんアジアへの市場が広がってきて、日本にファンクション作れって。それからは、日本を拠点に、香港・台湾・フィリピンを回ってたんです。だんだん日本での仕入れの比重が減ってね。

―市場がアメリカからアジアに移っていったんですね。

恭男さん:だいぶまわりましたよ。パスポートもハンコ押すところない位、あんまり多いから二冊一緒に束ねてね。(笑)


恭男さん:これは香港に出張したときのもの。香港にはよく行きました。これは香港上海銀行本店前。当時はイギリスのカラーが強くて、言葉も食事も。

あいこさん:若かったし楽しかったから、ほんとあっちこっち行きましたね。トータルでその会社は24年。親戚みたいな古い付き合いの人が何人もいますね。

―で70年に帰ってきて、アジアを回られた。

あいこさん:もうトランクしまう暇がなかったですね(笑)。出張だらけ。若いから大丈夫だったけど。

恭男さん:でも会社が閉鎖になって。やはり時代とともに変わってきますよ。今はコンピュータ関係が一番ですからね。閉鎖はいつごろだったかな…会社に24年いたから、77、78年くらいになりますね。結局、この会社は一代で終わったんです。みんな若かったね。全部閉鎖するときは私は定年間近でした。

古いパスポート

恭男さん:そのあとは手伝って欲しいと頼まれて、イタリーからの婦人服の輸入の会社に入ったんですよ。そこに65歳までいましたよ。イタリアの仕事っていうのはアメリカと全然違う。日本に近いですね。やってるものがものだし。だから日本の女性ってのは高いもん買わされてるなって思いましたけどね(笑)。

―「ブランド」ですか。

恭男さん:しかし、ブランドのものを持ってこないと売れないですよ。

あいこさん:若かったら若いだけで可愛いでしょ。だから若い子がブランドを持つって考えられないですよ。自分似合ったものを見つけてくるのが彼らは上手なんです。

―しかしアメリカ、日本、アジア、イタリア…お仕事の範囲が広いですね!

恭男さん:まあ、それだけ長く生きてきたんですよ!(笑)
今も元気に

●当時の仕事仲間が元気に暮らすアメリカに度々遊びに行く加藤さんご夫妻。

恭男さん:ここ7、8年くらいは遊びで行きます。今は子どもさんたちが現役になってるんで面白いです。



恭男さん:これは社長やってた男。今年85の誕生日の男。元気で、まだドライブするし、テニスもスキーもやるんです。これがシニアハウスの中。

―すごい。日本の老人ホームとだいぶ違いますね。

恭男さん:病人じゃないんです。高齢者ってだけでね。痴呆の人もいるけど、痴呆であって病気ではないんです。最近日本じゃ「中高年」というと40歳からだそうですね。

あいこさん:その人に会って、いいなと思えば雇えばいいし、最初から門閉じちゃったらね。40代くらいでもできる方一杯いるのに。

恭男さん:若いことがいいこと、というか、ありますね、この国には。

―「経験」があるというのに…。

恭男さん:それを買わないとね。

あいこさん:日本もそういう風にならないと先進国じゃないんじゃないかなあって思ったり。年配の人も「もう私は老人だから今のことは覚えない、おしゃれもしない」ってなっちゃったらおじいさんおばあさんになっちゃいますね。

恭男さん:向こうでは若い連中が高齢者を尊敬しますよね。バスなんかでも高齢者を見ればさっと立ちますよ。女性だったらすぐ立つね。

―日本だったら狸寝入りだ。

あいこさん:いいレストランで女の人を迎えるときみんな立ちますね。イギリスでもそう。西欧の人はそうなんだなってことがわかりました。

恭男さん:相当高齢になっても、町を歩くのが楽ですよね。

―行ってみたいです、アメリカ!

あいこさん:これからですよ。うらやましいわね、お若いから。まあ誰でも平等に年取るんだけどね(笑)

**


・当時のアメリカにいた日本人といえば、エリートの人達だけ

→その頃のアメリカ、かなり見てみたくなりました!!
 当時のエリートの日本人の雰囲気、アメリカで
 どんな振る舞いをしていたのかなど、
 色々想像してしまいます。。

皆さんは、どのあたりが特に印象に残りましたか??



瀧澤尚子
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2009年03月24日
松井統治さんの聴き取りの記録
※NPO「昭和の記憶」【聴き書きデータベース】
より、エピソードをご紹介します!


**

松井統治さん(大正11年生まれ)
広島にて被爆。戦後杉並区で羊料理店「成吉思荘」を経営

●祖父・平五郎と「松井本店」
祖父・平五郎(米川家の次男)は伊勢から出てきた。まず品川で食肉・畜産の仲買業を学んだ。その後、占い師から、赤坂田町で商売をするよう勧められた。赤坂に行ってみると、誰も住んでいない野原であった。そこに、ようやく一軒家を発見し、肉屋を開業。「松井本店」と名付けた。
平五郎は子息が二十歳になると店を譲り、現在の学芸大学の地に牧場を開いた。その後、茨城旭村にも牧場を開いて羊を飼うなど、ひじょうに精力的な人物であった。その羊の肉を用いて、高円寺(現在の蚕糸の森公園付近)にジンギスカン料理の店「成吉思荘」を開業する。

●「松井本店」の様子
「松井本店」は宮内庁御用達の店として、とても繁盛していた。当時、肉は公定価格により取り引きされていたが、松井本店だけは免除されていた。理由は、天皇陛下が召し上がる肉に価格を付けるわけにはいかないという事情からだった。
軽井沢や逗子を訪問し、宮家、財閥からのご用聞きも行った。ただし、その手数を価格に上乗せすることもなかった。年末になると、東久邇宮家から半丸(牛一頭の半分という意味の符丁)の注文が入ったことを記憶している。

●中学生時代に手伝い
従業員は40〜50人くらいいて、当時としてはたいへん珍しくダットサン、ハーレーで配達していた。私も中学生時代、袱紗で包んだ肉の包みを宮家に配達することもあった。
肉から骨を外す「骨すき」という仕事もさせられた。包丁を誤って使ってしまうと、肉の表面に傷が入ってしまい、売り物にならなくなってしまう。私も何度かそういう失敗をしでかした。
祖父が伊勢から出てくる時からの古株(樋口橋松さん)もいて、店を取り仕切っていた。私も時々、店を手伝わされたが、よく「はい、売上!」と怒鳴られ、売上帳を取りに行かされたことがあった。その人が亡くなると、店葬が行われた。その時、東京府知事からその功労を賞する表彰状が送られてきたことを覚えている。店の間口が14間もある「日本一の肉屋」であった。

●当時の赤坂の様子
「松井本店」は赤坂田町6丁目10番地にあった。今でこそにぎわいを見せている赤坂であるが、祖父が入ったことは野原であった。松井家は赤坂で二番目に古い家である。
赤坂はまさに新しい文化の発祥の地であった。ダンスホールの「フロリダ」、自動車屋も「ビュイック」や「パッカード」など数多く軒を連ねていた。

●暁星から慶応へ
小中は、暁星であった。同窓に、プロ野球選手であった別当薫やマツダの創業者・松田重次郎がいた。
阿部信行大臣の子息は同級で右翼がかっていたがシンガポールで壮絶な戦死。一方、岩瀬という名門家の出は左翼的な反軍思想を持っていたため、軍隊の中でまったく昇級せず、南方疥癬で病死した。極端に、右や左に傾斜していると戦争で死んでいるという傾向があるように思う。
その後、慶応義塾大法学部に進学した。当時、予科在籍中は坊主頭、本科に進学した時に初めてその縛りが解かれた。しかし、当時の荒木貞夫文部大臣が断髪令を発し、本科も坊主頭が強制された。私は仲間と長い髪の終わりの日に記念写真を撮影した。

●学徒出陣
太平洋戦争が始まり、入学するや学徒出陣の第1回として徴兵されることになった。いわゆる神宮雨中行軍には行っていない。学徒出陣については、事前に学校から通知があり、その後、各自宅に召集令状が届いた。学校には結局三日にしか行くことはなかった。
昭和18年11月30日、東京駅から「出陣列車」が出発した。10数両編成の列車はすべて学生であった。新橋に父親が見送りに来た。列車は広島に向い、翌12月1日に到着した。この時のことが人生でもっとも悲しいことであり、情けないことであった。

●陸軍入隊
出陣列車を降り、広島の東練兵場に集合した。ひとまとまりごとに、指令が下されてゆく。南方、北方、内地と自分の行く先が決められていく。私を含む100人くらいの集団は結局、広島電信隊への配属が決まった。
学生服のまま営門をくぐり、すぐに軍服に着替えた。星一つの新兵である。
最初は丁重なもてなしで拍子抜けしたが、やがて五年兵たちから「お前たちはすぐに偉くなるから今のうちに殴られておけ」と言われ、暴力が始まった。新兵が向き合わされ、「対抗ビンタ」をさせられた。
朝は5時起床(冬は5時半)、9時消灯であったが、9時過ぎになるとこうした暴力が横行するのであった。これから数ヶ月間の体験は、その後の人生においてとても役に立ったと思う。

●昇級と陸軍通信学校入学
入隊後1ヶ月で、星が2つに増え一等兵になった。翌年(昭和19年)3月には上等兵に昇級した。5月1日には、陸軍通信学校に入学し、相模大野へ。ここでは徹底的な英才教育が施された。
約半年間の教育を経て、12月1日に卒業したが、その間、一切外出は認められていなかった。外部の人間との面会が許されたのはわずか3回で、その時、和田敏子さんが訪問してくれたことを思い出す。
12月、あかつき16710部隊に配属され、藤井少尉の補助教官となった。当時、幹部クラス(兵長、上等兵、下士官など)が払底していた。その矢先に、藤井少尉は3部隊(東京)へ転属。私は下関に転属し、特攻隊の教官に就任するはずであったが取りやめ。藤井少尉の後継に座ることになった。

●玄界灘で座礁する
昭和19年11月、玄界灘を船舶で航行していた。帰港しようとした刹那、座礁した。理由は、水深に関する情報の誤りであった。17メートルと認識していたのだが、じつは1.7メートルであったのだ。
船の甲板には爆雷が多数括り付けてある。大揺れに揺れているので、いつ爆発するか分からない。この時は、死を覚悟した。幸いにして、乗り組み委員全員、赤間に逃げ切ることができ一命を取り留めた。

●屋根の下敷きに
昭和20年5月(6月?)、広島で疎開地(空襲による延焼防止のための火避け地)を確保するために、隊で風呂屋を壊していた。約100人を動員しての作業で、私は采配をふるっていた。
いつ天井が落ちてくるかわからない危険な作業だったので、私が天井の様子を見張ることにした。「おれは上を見ているから、『出ろ!』と言ったら出りように」と周囲に伝えた。
その時、天井が落ちてきて、私は生き埋めになった。すぐに掘り出され救出された。「教官、生きてる、生きてる」という声が聞こえた。

●検閲のさなか、被爆
昭和20年8月6日朝、検閲(卒業式)が予定されていた。8時(?)には営庭に整列する。ふだんは完全軍装であったが、今日は軽軍装である。
整列し、山本少佐が「おい、松井、整列やり直せよ」、「右へぇ、ならへ!」と号令がかかった瞬間、ピカーッと光った。光が飛んできたようであった。瞬時、焼夷弾のでかいのが間近に落ちたと思った。とっさに炙られた首をかいた。上官たちも同じ仕草をしたが、その直後、吹き飛ばされた。
周囲は砂埃で何も見えなかったが、やがて目の前に防空壕が見えてきた。何十メートルも吹き飛ばされたようだ。腹の下に、抜き身の軍刀があり、ひやりとした。手に繋ぐひもは切れていた。最後まで刀を手放さなかったのが驚きであった。
砂埃が去ると、軍刀を抜いた中隊長がやって来た。私は「中隊長、だいじょうぶですか?」と呼びかけると、「兵隊を集めろ!」という命令が飛んだ。とても印象的なシーンであった。
後になって、落下傘状の物が落ちてきたのを見たというのを聞いたが、どうやらそれが原爆であったようだ。


被爆当時はいていた脚絆

●原爆による悲劇
兵営は爆心地から2キロくらいの所、比治山にあった。この位置での生存率は50%であるという。隊でも多くの死傷者を出した。幸いにいて、起床延期の朝であったので、寝ていた連中は難を免れた。彼らが寝ている上を窓枠が吹き飛んでいったのを見たそうだ。私の毛布も兵舎の梁の間に挟まっていた。その一方で、私の検閲を冷やかしに来て被爆した不幸な者もいた。
私は軽装であるが、服を着ていたので死を免れたが、それでも相当ひどい火傷を負った。同じ頃、裸体操をしていた別の部隊は全滅した。兵舎倒壊による圧死も少なくなかった。

●焼け爛れ膨張した顔
被爆した者たちは同様に顔が腫れ上がった。そうなると、人間の顔というものは区別が付かなくなる。顔の見分けがつかないので、名札が頼りになる。周囲はお互いを気遣って、名札を見ながらお互いを認識し合うのだが、どうしても間が空いてしまう。その時のお互いの気遣いが、状況のひどさを物語っていた。
私の顔も腫れ上がった。兵舎に落ちていた鏡の破片で自分の顔を見たが、「こりゃ、だめだ」と絶望した。
比治山には広島市内から人々が避難してきた。その中の一人が右手で頭を押さえてた。そこから血がボコンボコンと吹き出していた。やがてその人は倒れて死んだ。髪は抜け落ち、全身火傷なので男女の区別もつかない。
死んだ子供を負ぶった母親がやってきた。子供も全身焼け爛れているので、体温すらわからない。母親は子供が死んでいることをまだ知らない。兵隊たちはそれを知らせないように気遣うのだが、子供の皮膚の一部が火傷から免れており、その肌があまりにも冷たかったので、初めて子供の死を知った。その時の母親の咆吼が今も耳に残る。

●終戦のラジオ放送
音が悪く、よく聞こえなかった。ただ、戦争が終わったことは認識できた。連隊に帰った後、することがない。自棄になり、裏山に登り、刀(昭和刀)で竹を切って回った。

●小泉信三先生
慶應義塾塾長の小泉信三は私がもっとも尊敬する人物である。学徒出陣する学生を前に、「命を大事にしろ、死を逸るな、無駄死にをするな」と語りかけた。当時の雰囲気からすると、きわめて異例の弁舌であったと思う。
六代目菊五郎に似ている美男子である小泉先生であるが、戦後、再会した時は顔に火傷を負っていた。昭和25年(26年?)の秋、東京ステーション・ホテルで先生を見かけた私は声をかけた。
すると、先生は「ああ、君、よく生きて帰ってきたね。君の年代が生きているのを見るととても嬉しいよ」と言った。先生の息子は2人戦死している。

●成吉思荘に身を寄せる
終戦後帰京、中野駅1番線ホームに着いた。赤坂は焼けていた。
杉並南高円寺にあった別荘に身を寄せた。当時、平五郎は日本で初めて羊を飼い始めた。政府が「羊100万頭増産計画」という計画をたちあげ、羊毛からくる被服の自給自足を目指した。羊が100万頭いても、毛を刈るだけではしょうがない。そのためには肉を食べよう、と言うことになり、別荘を料亭にして羊の試食場にせよと決まった。こうして、昭和10年、政府肝いりの「成吉思荘」が会員制でスタートすることになった。丸山鶴吉(警視総監)などが会員だった。
羊の料理法は試行錯誤しながらだった。北京に「コウヤンロウ」(羊の肉をあぶる、という意)という料理があり、その手法を取り入れた。「成吉思」(ジンギス)という名付けの理由は諸説あるが、明らかではない。

●矢崎総業の代理店業に
昭和21年終わり頃、赤坂の掘っ建て小屋で戦友、部下を集め6人ほどで松井商事という電線販売を手がける代理店を興した。何しろ焼け野原で電線などないから、儲かった。地方にいくつか代理店があったが、矢崎総業に一本化、吸収することになった。他の従業員は矢崎に入社した。

●成吉思荘の経営を
松井商事がなくなり、さてどうするかと言う時に「お前がやってくれ」と成吉思荘の経営を託された。が、仕事のイロハも知らない。そのためには、商売を学ぶ必要があったから東京ステーションホテル(田誠さん、田英夫さんの父が経営)に入社した。

●東京ステーションホテル
25年5月東京ステーションホテルに入社、宴会部に配属された。とてもいい経験をすることになる。
1年後、室長になった。仕事がとてもおもしろく、1年ほどで帰ろうと思っていたが結局11年間お世話になった。当時帝国ホテル、第一ホテルは接収されていたから民間ホテルの第一号だった。

●ホテルで結婚式
当時、東京ステーションホテルには「コーヒーショップ」があった。この呼び方は社長の田さんが日本で初めて使った。ホテルは満室で売上15万円の時代に、コーヒーショップは回転率がいいから30万円稼いだ。宴会で回転を良くするにはどうしたら良いか、と知恵を絞って、宴会場で結婚式をやろう、と思いついた。
「新婚列車は式場から」というキャッチコピーも作って売り出したところ、大ヒット。庶民には手が出ず、一流の人たちが続々と式を挙げた。神主も日枝神社に頼んだ。神主が新郎新婦の名前を間違える、というハプニングもあった。ステーションホテルで式を挙げるのは、当時のステータスだった。式1回だけで30万円を稼ぐようになった。ホテル業務に「宴会」を持ち込んだのは初めてだっただろう。

●組合と労働争議
ホテル従業員が組合を作るようになり、その調整役を私がした。本社機構と現場の給与体系の違いから紛糾し、争議へ。最終的には是正した。そのうち、結婚式式場に全逓と国労組合員が赤旗を持って乱入するという事態が起きた。どうしても許せなくて、即日辞表を出した。慰留され、結果的には12月末まで在籍した。
社長から極秘裏に大金を預かって収集と調整に勤めた。普段温厚な人でも、組合活動になると人が変わる人が多い。人のいろいろな面をみた。私の行動も組合側で監視していたり、小説のような経験をした。

●退社
組合への行動が一段落ついたところで、昭和35年12月末日をもって退社した。田さんが送別会を自ら開いてくださった。ステーションホテルでは何物にも代え難い、得難い経験をさせてもらった。

●成吉思荘へ
昭和36年、成吉思荘の経営へ。当時は叔母が経営していた。
会員制ではなく一般客が入れるようになっていたが、昔の料理屋の形が残っていて、女中は客室で寝泊まりするし、チップを大きな収入源にしている。古い料理屋の形式を新しくするにはどうしたらいいのかを考えた。古い女中には煙たがられることも承知で改革に入った。女中の客室睡眠を廃止、宿舎と調理場を新たに作った。自分の着物を着るのをやめてユニフォームを着用させ、月給制にした。杉並区保健所から優良店のお墨付きをもらい、東京都から賞を得るほどまでになった。

今から10数年前、一大決心をして「成吉思荘」を閉じた。

**

今朝、改めて読んだのですが、
朝からなんだか胸がいっぱいになってしまいました。

松井さんの来し方、色々なシーンが
頭の中に浮かんできます。

和田敏子さんとは、あの旅館「和可菜」の!?
これは驚きです!
調べてみたいと思います。

瀧澤尚子

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2009年03月23日
松上芳雄さんの聴き取りの記録
※NPO「昭和の記憶」【聴き書きデータベース】
より、エピソードをご紹介します!

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●「消防ポンプ」と呼ばれた先生

松上 芳雄さん(79歳)
大正15年(1926年) 生まれ
山梨県山梨市

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硯で有名な山梨県硯島村雨畑に生まれる。勤め先の製鉄会社が倒産した後、教職に就いた。ベルが鳴るとすぐやってくるというので、ついたあだ名が「消防ポンプ」。多くの生徒に信頼され、その関係は今現在にも及ぶ。

聴き手:松上久子(妻)、松上 哲(次男)、松上 一平(孫)
聴き取り日:平成17年1月30日

■硯の村に生まれる
山梨県の硯島村雨畑――今は過疎のこの村も、往時は林業、お茶、硯の産地として、多くの人々が暮らしていた。

芳雄 山梨県の硯島村雨旗、現在の南巨摩郡早川町雨畑で生まれた。昔は早川町も6000人くらい人がいたんだけど、今はすっかり過疎化が進んで、1800人くらいしかいないんじゃないかな。

── それは何で?

芳雄 産業が衰退したこともあるね。硯島村は林業、お茶、硯なんかが盛んだったから。林業はもうすっかり衰退してしまったし……。硯も、もう職人がいなくて、今はもう、2人しかいないみたい。

── 硯が有名だったの?

芳雄 そう、雨畑は硯で有名な地域なんだよ。「雨畑硯」といって、中国の「端渓」なんかと並び称されるくらいの最高級品だ。うちにもいくつか置いてあるだろう。ほら、こういうの見たことあるだろ?(と取って見せる)

── ああ、これなんだ。そんなに高級な硯だったんだ。小さい頃、何も知らずに使ってたような気がするな。

■結婚のあいさつは留置所で
職場で知り合った女性(内田久子)に一目ぼれ。彼女は会社の社長の姪っ子だった。労働組合の役員をしていたため、周囲の猛反対にあう。結婚するまでに2年かかった。

芳雄 山梨工業専門学校を卒業してから横浜の製鉄会社で働いていたんだけど、そこの工場長が私の学校時代の恩師で、その人の1年後輩の方が、日本電化の工場長だったんだ。私が山梨県出身だったから、「お前は山梨に帰ればいいじゃないか」ということで、山梨県にある日本電化に職を紹介してもらった。そこでおばあちゃんに会った。一目ぼれだったね。会って2年くらいしてから結婚したかな。でも実は、当時は労働組合の役員なんかしてたから、結婚の反対をされてね。

── どういうこと?

芳雄 おばあちゃんのおじさんが日本電化の社長だったんだ。労働組合員と社長は対立する立場だからね。だから結婚する前はもちろん、結婚してからも団体交渉なんかやっていると専務がやってきて、「君はなんだ」と。「社長の親戚じゃあないか、会社にたてつくとは」と。「いえいえ、それとこれとは違いますよ。」とかなんとか、結構もめてたんだ。

── しかし、よく結婚できたね。

芳雄 おばあちゃんのおじさんは、最後まで反対してたけどね(笑)。だけどおばあちゃんのお父さんが賛成してくれたんだ。おばあちゃんのお父さんとはなんだか気があってね。おばあちゃんのお父さん(内田孝行)は職業軍人で、戦時中、司令官をしてたから、その頃にはB級戦犯として、留置所にいたんだけどね。二人して会いに行って、許しを得たんだ。

■教育なんてもんはようわからん
「俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育 なんてもんはようわからん」と生徒に挨拶して、いざ教職に。子供達に、教育というものを教えてもらったという。在職中は「消防ポンプ」と呼ばれ親しまれた。

── おじいちゃんは先生をしてたけど、どうして先生になったの?

芳雄 さっき言ったように元々は工業専門学校を出て、製鉄会社に勤めていた。入社した頃は、朝鮮戦争のブームで随分景気がよかった。朝鮮特需というやつだ。それが朝鮮戦争が終わったとたん、会社がパタっと潰れた。その時同僚に、「教師にでもなれや」って言われてね。「教師なんてことが俺にできるか」なんて言って、半年ぐらいは失業保険貰いながら生活していたんだけど、食っていけないから、なんとなく「じゃ、教師でもやろうか」と思って、教員の勉強をして、免許をとってね。

── それが何歳ぐらいの時?

芳雄 28歳。それで教師として初めて学校に赴任した時、子供達の前でこういう挨拶をしたんだ。「おい、俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育なんてもんはようわからん。だけどな、数学ってのだけは勉強して面白かったから、お前らにしっかり教えてやる」。

── へえ、ずいぶんな挨拶だね。

芳雄 しかし、教師になってから、子供達からいろんなことを教えてもらったよ。ある時、「正の数、負の数を知っているか?」って聞くと、「はい、0より大きい数と、小さい数と教科書に書いています。でも、よくわかりません。0はない数なんだから、0より小さい数なんてあるわけないじゃないですか」という子がいた。要領のいい子だと、「なるほど、そういうことなんだ」と特に考えもせず、教科書に書いてあることを暗記してしまうんだけど、その子は違った。「なるほど、確かにそうだな」と思って、0を基準として見たときの正の数、負の数の対応関係を図を使ったりしながら教えてあげたんだ。そうしたら最後にその子が、「ああ、なーるほどなぁ」と言ってもっのすごく喜んだんだよ。「ああ、なーるほどなぁ」ってその声を聞いたとき、ものすごく嬉しかった。百点取った時の喜びと、分かった時の喜びと、どっちがいいって言ったらば、「そりゃ先生、分かった時の喜びのほうがずっといいよ」と言う。国語の点数、数学の点数が何点で、社会を合計して合計点が上の方が成績が上だとか、そんなのは何の意味もない。自分で考えて、ああこうなんだと納得することが重要なんだ。分かる喜び、学ぶ楽しさ、そして教えるということ、教育とはこういうことなんだと子供たちにつくづく教えられたね。

── 本当に、子供に教えられるってことがあるんだね。

芳雄 ある時、私の授業に関する感想文を書いてもらったんだけど、その中にこんなのがあった。ちょっと読んでみるね。「とても楽しい授業です。楽しいと言っても、おもしろい、愉快なということではありません。私たちは勉強の楽しみが分かってきたのです。他の先生とは違った何かがある。他の先生とはどこかが違う。松上先生、生徒の意見を尊重してくれる先生。授業の内容も充実していて、毎日数学の時間が待ち遠しいことがありました。怒るときには怒る、授業の時にはみんなと一心同体で勉強する。分からないところがあれば、とことんまで追求していく先生。先生は今の言葉で言えば、スーパーマンのようだ」すごく嬉しかった。教師をやっていて本当に良かったと思ったよ。

── あだ名なんかはあった? ひょっとして、スーパーマン先生とか?

芳雄 あったよ、スーパーマンじゃなかったけどね(笑)。生徒たちに、よく「授業が待ち遠しい、待ち遠しい」といわれたから、チャイムが鳴ると同時に教室に入るようにしていたんだ。それでついたあだ名が「消防ポンプ」。ベルが鳴ったらすぐ来るってことだな。

── それはすごく名誉な渾名だね。

芳雄 そう。それに授業が待ち遠しいなんて、教師にとってはすごく嬉しいし、名誉なことだよ。

── おじいちゃんは、先生をやめて議員をやっていたと思うんだけど、なんで、教師を辞めて議員になったの?

芳雄 教員を辞めたのは55歳の時。真実を貫く民主教育をやろうと考えていただから、山教組の問題には我慢ができなかったんだ。まだ私が教員組合に所属していた時「こんな組合があるか! 子供のことを考えてやっとらんで、選挙のことだけ考えて何が教員組合か!」って言ってたら、共産党を支持する人たちが「涙が出るくらい嬉しかったよ」と。「あなたも共産党に入ってくれないか」と言う。教育を良くするには、政治から変えていかなければと思っていたんで、それじゃあと思ってね。うちの親父も兄貴もバリバリの自民党主義者だけど、基本的なところは同じものだと思った。

■次世代に向けて
── じゃ、最後に何かメッセージを。

芳雄 全て真実は最初は馬鹿にされる、次には暴力的に反対される。でも、正しいことは正しいんだと人の意見に左右されず、自分なりに自分のあるべき姿というものを考えて、それを目指していって欲しい。で、一人ひとり人間というものは違うということもきちんと理解して、その上でチームワークを大切にして欲しいかな。「我は我なり、されど仲良く」だな。そういった前提があって、みんなに影響のある、政治、経済等についてみんなで議論していけたらいいんじゃないかな。

**

教師生活を振り返る松上さんの
深い言葉の数々が、心に染みます。

「我は我なり、されど仲良く」――
素敵な言葉を教わりました!

瀧澤尚子
posted by モセ at 11:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月22日
3/21(土)横浜市戸塚区・聴き書きイベント速報!
■「敬老の日を聴き書きの日に」キャンペーン 
聴き書きイベント速報!


〜2009年3月21日 @神奈川県横浜市


レストヴィラ名瀬の里に、
ご入居者の方々、職員の方々、聴き書きボランティア含めて
約35名の方が集まってくださいました!

今回の聴き書きテーマは、動物の記憶

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昔と現代を比べると、
動物とのかかわり方、関係性に、
大きな変化が見られるのではないかと感じています。

そこで、今回は、動物との付き合い方を中心に、
聴き書きを行うことにしました!

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こんな質問をお聴きしてみました!

Q1.今までで一番怖かった動物の思い出は?
Q2.今までで一番嬉しかった/感動した動物の思い出は?
Q3.今までで一番悲しかった動物の思い出は?
Q4.生活のなかで、動物はどんな風に身近にいましたか?

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すると…

・牛は神様
Tさんのおうちは農家で、牛を飼っていました。
牛にたくさん食べさせて、生まれた子供の牛を売って
生計を立てていたそうで、
牛も家畜として大事に育てられたそうです。
牛にいたずしたら、親に相当怒られていたとのことで、
「牛は神様」、「牛様さま」だったのだそうです。

・馬が怖くて…
Kさんが子どものころ、どこの家にも馬がいました。
厠に行くとき、馬屋の前を通らなければならず、
馬が顔を出してきやしないかと、怖くてならなかったそう。
そこで、厠には、必ず大人の人についてきて
もらわないと行けなかったそうです。

・ニワトリの誕生に感動
Kさんは、
ニワトリの赤ちゃんが硬い殻を破って誕生した瞬間
に立ち会った瞬間が、一番感動したそうです。
赤ちゃんが生活するので、トリ小屋を毎日きれいに
掃除し、エサも米ぬか、麦をつぶしたり草や卵の殻を
入れたりと、とても気を遣っていました。

などなど、興味深いエピソードがたくさん聴かれました!


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イベント後には、それぞれが伺ったお話の振り返りを。。

今はペットとという捉え方がほとんどになったけれど、
昔は家畜として、実用性が求められていたことなどが
分かってきました。

また、このテーマでの聴き書き研究も
深めていきたいと思います。

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最後に、聴き手から話し手の方へ
メッセージカードをプレゼント!

ホームの方からも、みんなで撮った写真を
最後に私たちへプレゼントしていただき、
感動でした!

お世話になった皆さま、参加してくれた皆さま、
今日も、ありがとうございました!!

**

●参加者の声

・仕事柄、多くの人と接するが、
じっくりと話を聴く時間が取れなかった。
今回、たっぷりと(まだまだ足りないが)
話ができ楽しく、又、生きた歴史を
学ぶことができました。
有意義な時間でした。
(間瀬さん・看護師・女性)

・ご入居者さまのお話は、いつ聴いても心に響くものが
あります。
皆様が激動の時代を生きてこられ、そして、
今日の日本を築いてくださったこと、
本当に感謝の思いです。
この時代の記憶を残すことは、とても意義深いこと
だと思っています。
これからも、活動を応援させていただくとともに
参加できるときには、参加させていただこうと思います。
(飛さん・会社員・女性)

・動物とのかかわり方が、現代と違うということを
知ることができました。
私がお話を聴いた方は、小さいころ、遊び道具のかわりに
動物を捕まえていたそうです。
2、3日すると、その動物を自然にかえしていたそうです。
このような自然な動物とのかかわり方があるといことが
分かりました。
他にも、家族や趣味の話など、たくさん聴けて
楽しかったです。
(槙さん・大学生・女性)

・お話を聞かせてくださった方がとてもよく話してくださり
感動しました。
施設の受け入れもとても優しく親切で、好感が持てました。
また来たいと思いました。
(倉科さん・主婦・女性)

・本当に楽しい時間でした。
人それぞれの人生、話を聞かせていただくだけで、
自分の興味や価値観が広がります。
もっと人を鋭敏に感じて、お話を
深く引き出せるようになりたいです。
人のストーリーにもっと共感して、
自分がその場で何ができるかを考えていきます。
(藤田さん・会社員・男性)







posted by モセ at 01:27 | Comment(0) | TrackBack(1) | 記事一覧
2009年03月20日
【健康長寿】コトダマ日めくりカレンダー 完成!
ついに完成!!!

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併せて、2008年度の敬老キャンペーン報告を盛り込んだ
『季刊 市井の昭和 特集――健康長寿の秘訣』
も、間もなく完成です!

来月には発送できる予定なので、
ぜひご期待ください!

瀧澤尚子
posted by モセ at 14:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月18日
民主党参議院議員の鈴木寛さん
今日は、これから民主党参議院議員の鈴木寛さん
ネットテレビに出演してきます!

12時〜流れるそうです。
ぜひご覧くださいね♪

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では、行ってきます!

http://www.suzukan.tv/index2.html

瀧澤尚子

posted by モセ at 09:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月17日
「定額給付金基金」に参加します!
NPOを支援するNPOチャリティ・プラットフォーム

からお声がけいただき、NPO「昭和の記憶」も

定額給付金基金」に参加します!


この定額給付金基金は、

「定額給付金を寄付したいけれども、
どこに寄付したらいいのかわからない、
信頼できる団体の見つけ方がわからない」

という方々の声を受け、
安心して寄付をしていただける「受け皿」
をつくろうという取り組みです。

チャリティ・プラットフォームと共に、
全国80のNPO団体が共同で立ち上がります!!

サイト上では、

「この寄付にかける想い」や
「NPOへの応援メッセージ」を募集し、
随時ホームページ上で公開(匿名)され、
ご覧いただくことができます。

基金設置期間は3月18日〜6月30日。

サイトオープンは明日!

ぜひ皆さんもメッセージをお送りくださいね!
http://www.charity-platform.com/kikin/

瀧澤尚子
posted by モセ at 09:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
日本経済新聞(2009.3.17)

日本経済新聞(2009.3.17)夕刊に掲載されました!

・「ご近所で、介護施設で… 高齢者 会話増やそう」

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posted by モセ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 新聞掲載情報
2009年03月13日
神戸で講演
今日は、神戸市老人福祉連盟さまからのご依頼で、
講演をしてまいりました!

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↑事務局長の畑野さんと。

今回ご依頼いただいたテーマは

「心の鍵を開けるには 〜今も昔の中に〜」

というもの。

震災住宅に住む高齢者の方々の見守り活動をされている
スタッフさんに向けて、お話をしてきました。

質疑応答の時間に、
スタッフの方々の抱える悩みなど
伺える機会がありました。

すると、日ごろ、各世帯の玄関先で
安否確認の声がけをする際、
特に男性の方には
「大丈夫だから自分には必要ない」
と言われてしまったりと、
なかなか心を打ち解けて
コミュニケーションするのが難しい
といったことを教えてくださいました。

今日の話が、こうした点の問題解決にも
少しでも参考になればと願うのみです。。

貴重な機会をいただき、ありがとうございました!!


▼当日の講義内容

(レジュメより)
1.自己紹介
2.NPO「昭和の記憶」活動紹介
3.聴き書きの現場から〜今も昔の中に〜
・過去の思い出を共有
・人生のクライマックス
・昔を懐かしむ感覚
・昔を思い出し、自分の人生に誇りを持つ
・存在意義、生きがいを感じる
4.参加者の声
5.心の鍵を開けるために
・事前準備
・聴かれる側の受け止め方
・答えやすい質問から始める
・「次回も楽しみ」と思っていただくために

**

↓ここからは写真です♪

会場近くに神戸中華街・南京町を発見!


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posted by モセ at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月11日
3/18は、参議院議員会館へ。。
今日は、民主党参議院議員の鈴木寛さんの事務所より、
取材依頼のご連絡をいただきました。

議員さんの事務所からのお電話に、
最初はびっくりしてしまいましたが、
すぐにトーク収録の日程が決まり、
早くもサイトに名前を載せてくださっていました!!

suzukan.JPG

サイト上でも見られるようなので、
ぜひご覧くださいね♪

http://www.suzukan.tv/index2.html

瀧澤尚子

posted by モセ at 21:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月10日
3月の聴き書きイベント、受付終了しました
今回もたくさんのお申込み、ありがとうございました!

ここ最近では、リピート参加の方も増え、

嬉しい限りです!!

4月以降の日程も決まり次第、またご案内します♪

瀧澤尚子
posted by モセ at 09:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月09日
もくもくと、講演準備。。
今月は、ありがたいことに
講演のご依頼をいただいています。

●今週13日(金)は、神戸へ!

神戸市老人福祉連盟さまからの依頼で、
講演をすることになりました。

「心の鍵を開けるには 〜今も昔の中に〜」という
題をいただいていて、
震災住宅に住む高齢者の見守り活動をされている
スタッフさん向けとのことです。

●25日(水)は、北海道へ!

帯広市教育委員会さまからの依頼で、
帯広市民大学講座という生涯学習プログラムの
講師を務めます。

「平成の若者が聴く昭和の昔語り」
とのタイトルをいただいています。

昨年秋に深川で聴き書きイベントを開催
してくださったプチレストラン・にれの木の
桂子
さんとの、夢の共演です♪

●28日(土)は、東京で!

日本ホスピタリティー推進協会の
ホスピタリティ・デーというイベントで
NPO「昭和の記憶」も事例発表をすることになりました! 

ほかには、ホスピタリティに取り組んでいる企業ということで、
富士ゼロックスさんや、ヤヨイ食品さんも発表されるそうです。


楽しみです!!

引き続き、準備に励みます。。。


瀧澤尚子
posted by モセ at 19:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月06日
このところ、立て続けに取材依頼があります
今日はこれからTBS「女子才彩」という番組の

取材打合せなのですが、

切り口はどれも「女性」なんです。

「働く女性の視点」、「女性の魅力を伝えたい」など…

今、「女性ブーム」なのでしょうか。


ついこの間までは、

「祖父母をリスペクトする若者」

という切り口で、


主に新聞メディアからの取材依頼が多かったです。

こうした切り口、メディアが意図するものって、

どんなところから来ているんだろう。。

いつも不思議に思っています。

どなたか、詳しい方がいらしたら、

ぜひ教えてくださいね!


posted by モセ at 13:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧
2009年03月05日
聴き書きボランティアからのお手紙
先日、以前聴き書きイベントに参加された
聴き書きボランティアの方より、
お手紙をいただきました!

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前回、その方が聴き取りされたご入居者の方から
「また来てくださいね」
と言っていただいたとのこと。

でも、今回のイベントには参加できないので、
代わりにと、その入居者さまへ宛てたお手紙をくださったのです。

じんと、感動してしまいました。

早速ホームの方にお伝えすると、

「何より、ご本人が喜ぶと思います。
ご家族にも報告したいです。」

とのこと。

早速、お手紙をホームにお送りしました。


嬉しいやりとりで、こうしたつながりが

増えていったらいいなと思っています。



瀧澤尚子

posted by モセ at 15:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事一覧