●根性があれば何でもできる ムスタンに行くきっかけは、もともとJICAでネパールに派遣されていたからです。定年で、いよいよ帰国するというときに、ネパールの首相・コイララ氏に頼まれました。今度は、どうかアッパームスタンの開発をしてほしいと。そこは世界で一番、貧しい土地と呼ばれているところでね。そんな秘境で農業をやろうなんていう人間はいなかったんですよ。僕には、五十年以上、農業をやってきたという、技術者としての自負がありましたからね。自分なら、残りの人生を賭ければ、この必死に生きている人々を救えるんじゃないかと考えたんだね。
年間降雨量がわずか二〇〇mmの乾燥地帯であり、寒暖の差は激しい。まともな野菜なんて一つも獲れない。そんな土地でも必ず作れる作物はあるんです。それを見つけるのが、この爺様の腕ですよ(笑)
ムスタンのりんごは、わざと背を低くしている。現地の人々の背が低いから、それに合わせたんです。結果、実のほうに栄養が行くようになりました。基本的に農作物は昼夜の寒暖差が激しいほど、美味しくなります。それに今まで、まともに野菜も作れていなかったから病害虫もいない。厳しい環境が、逆に成功の原因となったのです。今では青森や長野からりんご農家が勉強に来るくらいになっているんですよ。
僕はもともと果樹技術者です。ほかの農業に関しては素人ですが、ニジマスや鯉の養殖もやっています。標高二千メートル以上の土地だから、水がきれい。日本の養殖業者よりはるかに大規模な養殖場で美味しい魚を育てています。稲作も、その気候を利用して大成功した。根性があれば何でも出来るんだよ。一度ムスタンへいらっしゃい。「どうやってでも生きていこう」という根性が湧いてくるよ。
学校も十八校建てましたが登校率は一二〇%。まだ学校に行く年齢でない子も登校してきます。給食が食べられるからね(笑)
僕はムスタンに居ても三食、白米です。日本の人々より美味しいご馳走を食べているんじゃないかな。食べたいものは何でも自分で作れる腕を持っていますから。それが農業のありがたいところなんだね。
●家族を捨て、故郷を捨て、祖国を捨てての鹿島立ち じつは僕自身も、ムスタンに行くことを決意するまでは悩みました。輾転反側、眠れぬ夜を過ごしたんです。現地で人を雇い、長い歳月を過ごすことを考えると、どうしても二、三千万の金は必要になります。県庁の退職金などは、その後の家族の生活費を考えるといくらも残りません。「親方日の丸」といった環境で働いてきた身なので、資金調達の妙案などは浮かんでこない。そこで先祖伝来の山林を、密かに、義兄に売却して活動資金をつくったんです。これで準備は整った。しかし家族や関係者にどう伝えるかでまた悩んでね。猛反対するに決まっていますから。そんな時、絶好の機会が訪れました。JICAを定年退職して、永年の功労をねぎらう帰国祝賀会があったんです。その席上で「もう一度、ムスタンに行き、今度は一人の農業者として、ムスタンの開発に努める」と発表したんです。会場は万雷の拍手のあと、我に返ったように静まりかえりました。その後、ざわめきのなかで、親戚や友人があわてて寄ってきてね。口々に諌めるんですよ。家族にも何も話していなかったもんだから、それはたいそう反対されましたよ。しかし一回みんなの前で言ってしまえば後戻りは出来ませんからね。「もう決めたんだ。先祖伝来の山や田んぼ、畑をぜんぶ売り払ってしまった。ボランティアをやるには同志の信頼を得なければならない。それには自分だけ財産を持っていてはいけない。丸裸になっていくんだと。頼む、行かせてくれ」と言ったら最初は反対していた家族も、次第にあきらめていきましたね(笑)我が家はもともと、それぞれの生きる道には干渉しあわないという家訓でしたから。その代わり子供たちにもやりたいことをやらせてきました。
●隻眼痩躯の恩師・丹羽鼎三先生 ムスタンに行くことを決めたのは、恩師である丹羽鼎三先生の「近藤よ、安易な道を選ぶなかれ、常に弱者の味方たれ、節を曲げることなかれ」という遺言ともいえる言葉でした。
平成十五年三月、JICAの勤めを終え、日本に帰国しました。桜舞うなか、多摩墓地にある先生のお墓の前に額づいてムスタン行きを誓い、腹をくくりました。
先生は加茂農林専門学校(新潟大学農学部の前身)の初代校長で、仙台の伊達藩の武術の師範をやっておられたこともあります。顕微鏡の覗きすぎで、片目が潰れてしまったというくらい勉強熱心、一徹な先生でした。
一方、僕は若いころは肺病で、「二十歳まで生きられないだろう」と言われていました。肺病が治ってから学校へ行ったので、二十七歳の頃に先生に出会ったんです。本当は文学青年で、作家か文学者になろうと思っていたから、農業なんて興味はなかったんだけどね(笑)家の近くに専門学校ができたから、長い闘病生活の息抜きに行ってみるかというぐらいで。
しかし丹羽先生と出会ってから、少しずつ農業に惹きこまれていった。先生は農場の管理人室に一人で住んでおられました。他の連中はおっかながって近づかなかったが、僕はやはり変わっていたんだろうね。毎日、そこに一人でとことこ通っていたんですよ。五十も年上の先生に、自分の農業に対する疑問を真正面からぶつけていきました。当時は作付け制限や、大型機械化という方向に進んでいたから、「このままでは日本の農業がだめになると思う」と先生に言ったら、「俺もそう思う」と言われてね。「農林省や県の奴らには分からんのだ。近藤、はやく一人前になって頑張ってくれ」なんて言われてね。僕のボランティアの原点は、丹羽先生なんだね。「ただの技術屋になるな。君なら、恵まれない人のために働けば、多少は世の中に名を残すだろう」と言われていました。それ以来、丹羽先生の言われた通りに生きてきて。この歳まであっという間ですよ(笑)
先生の話から、先人は、本当に、
師弟という関係を、
峻厳かつ、崇高なものとして受け止めていた
ということが伺えます。
「人を敬う」という気持ちを、ともすれば、
忘れてしまいがちな現代において、
先人たちの言葉は、大切なことを思い起こさせてくれます。
これからも、聴き書きに励んで参ります☆
新潟支部 谷口 博幸